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黒曜石


神津島の先史時代を考える時、黒曜石の原産地であることを抜きには考えられない。
先土器の時代(二万一千年から一万三千年前)に、東京都練馬区の「比丘尼橋遺跡、調布市野川遺跡、また小金井市の西之台遺跡、瑞穂町の狭山遺跡、神奈川県相模原市の橋本遺跡、大和市の月見野遺跡、静岡県三島市の庚申松遺跡、初音ヶ原遺跡、沼津市の休場遺跡に神津島産黒曜石が運ばれたとされている。
また縄文時代早期の九千年前から縄文晩期の四千年前には、伊豆半島中心に千葉県成田市の空港や佐倉市の遺跡から神津島産とされる黒曜石が出土している。
東日本の黒曜石の原産地は、信州産、箱根産と神津島産が知られているが、箱根、伊豆産のものは良質のものが少ないと言う。
神津島産の黒曜石については、砂糠崎、恩馳島、長浜の三ヶ所が知られているが、砂糠崎は海上にその露頭が数メートルの黒い幅を見せている。また恩馳島の露頭は海面下で干潮の時にはその一部を見ることが出来る。長浜の黒曜石は砂糠崎と恩馳島との中間の石質であると言われている。特に恩馳島の黒曜石は質も良く研磨した面は、美しい光沢を見せている。また恩馳島周辺の海底には黒曜石の礫や剥落した塊が一面に敷き詰められている。
明治十四年、坪井正五郎博士は、大島タツの口先土器時代の遺跡から神津島産の黒曜石が出土したので、既に石器の時代に大島と神津島の間に交易があったと発表された。また従来北方からの文化移入としていた北部伊豆諸島と、南方系の文化圏内とされていた八丈島の湯の浜、倉輪の遺跡から神津島産の黒曜石が出土したので、伊豆諸島の文化圏が一体化していることが証明できた。
昭和五十三年三月五日付けの読売新聞で、立教大学の鈴木正夫教授は神津島産の黒曜石の年代測定研究結果を発表、黒曜石の表面の光沢が年経ることで色が褪せる度合いで、使用された年代を知る「フィション、トラック法」を確立し、「黒曜石は石器時代の日常に欠かせない利器であった」とし、神奈川県大和市の月見野遺跡出土の黒曜石は、凡そ一万八千年前に神津島からはこばれたもの、また調布市飛行場脇の野川遺跡出土の黒曜石は二万一千年前に、相模原市橋本遺跡出土のものは、二万二千年前のものと分析されている。
ではどうして神津島に良質の黒曜石が在ることが知れたのであろうか。このことは推測以外手段はないが、多くは漂流による発見であろうと言う意見が多いが、別の見方もある。それは地球の氷河期に相当の海面の低下があり、神津島から南西の銭洲礁から恩馳島、神津島、式根島それに新島を含む一大島嶼の姿を伊豆半島から眺めた時、人々は島に行ってみたいという冒険心を駆られたに違いない。然し伊豆半島と島の間は依然として海峡は存在するが現在よりは距離が短かかったであろう。伊豆半島から眺めていた彼らは決死の覚悟で「舟」に乗り渡島を決行したと考えられないでしょうか。   
 伊豆半島を舟様のもので出発した冒険者たちは、海峡を流れる黒潮に乗って新島辺りに到着し、島の中を巡り住居や食料の調達を行った時、偶然神津島の恩馳島で黒曜石を発見した。
黒曜石の搬出経路は次のように考えられている。それは採掘、海上運搬、加工、流通をそれぞれが分担したとしている。おそらく伊豆から複数の人々が黒曜石の搬出に参加したものと思われる。それを裏付けるものに、伊豆河津町の段間遺跡の黒曜石のフレークと黒曜石の塊数十キロの出土が挙げられる。おそらく神津島で採掘しそれを舟様のもので海上を運搬し、河津町の段間で、ナイフ、ヤジリ等に加工されたものと考えられる。
今から二万年前の石器の時代から、縄文晩期の四千年までの間、文明の利器として神津島の黒曜石が各地に広がった事は事実であろう。

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