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神津島の史跡

神社・仏閣・神話など

水配り神話


伊豆諸島創生という大事業を成し終えた事代主命は、各島に后・妃・御子といった神々を配置します。そして神々の会議が神の集まる島(神津島)の天上山、不入ガ沢で行われました。会議の議題は生活に一番大切な水の確保であり会議は粉砕したようです。
 その昔、伊豆諸島の中心である神津島の天上山に、島々の神々が集まり会議をしました。一番大切な会議は、命の源である「水」をどのように分配するかでしたが、そこで次の朝、先着順に分けることになりました。いよいよ朝になり、一番早く着いたのは御蔵島の神様でした。御蔵島は最も多くの配分を受け、次は新島、三番目は八丈島、四番目は三宅島、五番目は大島でした。こうして水は次々と配られ、最後に寝坊した利島の神様がやってきたときには水はほとんど残っていませんでした。それを見た利島の神様は怒り、わずかに残った水に飛び込んで暴れまわりました。この水が四方八方に飛び散り、神津島ではいたるところで水が湧き出るようになったと言われています。

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流人墓地


かって大宝律令とか養老律令等古代の法律で、犯罪者の刑罰を定めていますが、その中に死罪に次ぐ刑罰として、流罪があります。
 流人と呼ぶ犯罪者は、殆ど期限無しの終身刑で、宮中等での慶事や弔辞で赦免になることがあってもそれは稀なことで、多くはその流刑地で果てることになりました。
 江戸時代に入ってから、徳川幕府は、寛保二年(西暦一七四二年)に、お定め書百ヶ条を公布し流刑を遠島と言い、その流刑地を伊豆諸島に定め、江戸近辺の犯罪人を島送りにしました。
 先ず、遠流の地として八丈島、ここはおもに思想犯罪者を、中流の地として三宅島、ここはおもに破廉恥罪の者を、近流の地として大島、新島を定めて犯罪者を送り、神津島、御蔵島には島替えと言い島で再び罪を犯した者を送り込みましたが、この二つの島は地形も厳しく食料も少ないので再犯とは言え、流人を大勢送ることは無かったようです。
寛政八年(西暦一七九六年)になると、大島は本土に近過ぎると言うことで流刑者を送らないようになりましたが、その時神津島や御蔵島は流刑地から外されたと言われています。
 この制度は明治四年まで続き、明治十一年に島の行政が静岡県から東京府に移された時、島の流人は許されて出島しましたが、いかにお上の都合とは言え、島の人たちには迷惑千万な制度でした。
 島に送られた流人の生活は「日常勝手たるべし」とされて、すべて自活する事が原則で見届け品と言う「仕送り」を受ける一部の流人や、手に職のある者を除いては、その日その日の食を得るために、島の人の仕事の手伝いをして食料を得ていましたが、それでも食料の乏しい島で、島の人と流人が分かち合う食料の余裕があったのでしょうか。
 神津島に送り込まれた流人の数は、良く判っておりません、神津島村役場の「村史年表」の後書きに、「濤響寺の過去帳に流人と思われる者、五十人余とあります。
一、 おた、ジュリアの墓
 慶長十七年(西暦一六一二年)徳川幕府のキリシタン禁教令で、改宗を迫られながら固く拒み続け、同年の五月に神津島に流されました。おた、ジュリアの墓は、流人墓地の奥で宝塔印塔ようの墓碑でその前には、榊が活けられていますが、島の人達はジュリアを神と見ているようです。
 昭和三十二年頃、都の文化調査団が流人墓地を調査し、おた、ジュリアの墓であると認定されました。
 おた、ジュリアは慶長元年(西暦一五九六年)豊臣秀吉の朝鮮出兵のおり、小西行長に救われて日本に連れてこられ、行長の妻に養育され、その影響を受けてキリシタンを信じ、ジュリアの洗礼名を受け、その聡明さと美貌で朝鮮貴族の出自と言われました。
 行長の没落後は徳川家康の庇護を受け、江戸の大奥で家康に仕えましたが、家康が秀忠に将軍職を委譲してからは、家康の居城の駿府(静岡市)の大奥に移りました。
 キリシタン禁教令を公布した幕府は、駿府にいるジュリアに執拗に改宗を求めますが、それに応じないので、世の見せしめとして伊豆網代から神津島へ流す(大島、新島経由)ことにしました。
 網代への途中、ジュリアは駕籠から降り裸足で山道を歩き始めたので、警護の者は驚いて駕籠に戻るように薦めますが、ジュリアは「私はキリストが、イスラエルの首都エルサレムのゴルゴダの丘で十字架を背負った故事を思いそれを分かちあいたいのです」と聞き入れませんでした。警護の者はジュリアは当然許されて、駿府に帰るものと考え駿府に戻ると必ず咎められるで、是非駕籠にと重ねて言いましたが、ジュリアはそのまま歩きつづけました。
 結局ジュリアは寂しく神津島でキリシタンの信仰を守り、流罪の生活を四〇年程送り六十余歳で没したとされています。
 またこの墓を四〇〇年もの間、大切に守り続けてきた家があります。そして「この神様にお願いすると、女性の病気に御利益があります」と言い伝えを残しています。ジュリアの養父行長は薬種商の息子であり、またジュリアは西洋医学を心得た西洋人宣教師の助手を務め医術にも詳しかったはず、また大奥という女性社会で暮らしたので、特に婦人科の疾患について知識があり、島の人達に大事にされ、没後も墓を守られたのではないかと想像できます。
 二、日蓮宗不受不施派僧の墓
 流人墓地の入り口から右側に並ぶ墓石は、日蓮宗不受不施派の僧侶のものと言われています。この派の僧侶は豊臣秀吉が父母のために、」千僧供養に招きましたが、宗派内で「この際、権威に逆らわないで出席すべきだ」とする意見と「権威と言えども出席する事は法華経の信者以外布施を受けず、施さぬとする教義に悖る」として意見の対立が有り、結局千層供養に参加しなかったため「折角の大閤殿下のお招きに応じないとは何事」と、以後この宗派は弾圧を受けることになり、元禄四年(西暦一六九一年)にこの派の僧侶七人を神津島に流した記録が残されています。けれどもこの墓地にはこの宗派の僧侶とされる墓碑が廿基ありますので、七人の記録以外にも流罪になった僧侶がいたということでしょうか。これらの墓碑の中で一際目立つ五輪の墓碑は明和六年(西暦一七六九年)に三宅島に流され、後再犯の科で神津島に島替えになり、神津島の峠山(今の山下本館の辺り)に住み子供達に読み書きを教えたと言われる「隆賢院日照大徳」の墓碑であり、「日照」の入寂後これらの子弟が、この五輪の墓碑を建立したと言われます。
三、 その他
 神津島の流人については、正徳四年(西暦一七一四年)に江戸城大奥で起きた、絵島・生島事件で、江戸山村座の歌舞伎役者、生島新五郎が三宅島に流された時、同座の狂言作者中村清五郎他四名が、神津島に流されています。
 明和八年(西暦一七七一年)に新島に流されていた流人四人が、島抜けを企てたが仲間の一人が新島役所へ密告したため、捕らえられ、主犯の二人は死罪、中途で企てを断った一人は神津島へ島替え、密告した者は島役所から褒美として米二俵を頂いたと言い、文化六年(西暦一八〇九年)に新島の流人安五郎と勝蔵が島抜けに失敗して、安五郎は神津島へ、勝蔵は御蔵島へ島替えになっています。

濤響寺


島の唯一の菩提寺濤響寺は浄土宗のお寺で、寛永十六年(西暦一六三九年)に島の神主と地役人を世襲した松江家の宗祖、石田因幡守の勧請で伊豆下田の海善寺から、休山和尚の派遣を受けて開基され、当時、現在の小学校の正門辺りに萱葺きの草庵を建て「矢割山」と定めました。
 宝永の頃(西暦一七〇四年~一七一〇年)部落大半を焼失するポチ火事で類焼、またその四十年後の下の沢火事で再び全焼したので、第九世専栄上人の時に鈴木宗七家や、数件の家の土地を公有地と交換して、現在の海岸寄りの場所へ移転されました。
 これは季節風や火災のことを考えた判断があったものと思いますが、まだその頃は草庵程度のものだったようです。
 島は享和の年(西暦一八〇一~一八〇三年)から、かつおの大漁に恵まれたので、文化元年(西暦一八〇四年)の第十三世運智上人の代に、地役人松江右京の発起で、伽藍の建築に着手する事になりました。
 この建築は三年の歳月を要し、文化三年(西暦一八〇六年)の八月に上棟式を上げ、その年の暮れにようやく現在の伽藍が落慶しました。
 豊漁に恵まれたとは言え、村中総出の労役は大変なものだったと言い伝えられていますが、佛の厚い信仰とお寺への敬慕はかえって深まり、老若男女が山での木材の伐採、人肩での運搬、板の挽き割りなど、重い労働を誇りに念仏を唱えながら心を合わせた作業に、楽しみさえ覚えたものと言われています。
 この建築の棟梁は伊豆下田の臼井久八で、屋根は宝形造りで堂内の御本尊を祀る正面祭壇は、一段高くして内陣を設けられていて珍しいものと言われています。
 伽藍内外の組物や取り付けられた彫刻物は、二百年経た今でも深みのある色彩を残し、素晴らしい出来栄えに当時の職人達の技術の冴にうなずかされ、特に内陣の組物欄間の蟇又(かえるまた)に彫られた人、鳥獣、花など興味深い彫刻物です。
 本堂内の丸い円柱はきれいに磨かれて、長い歴史の艶が光をはなっています。
 本堂の廊下の正面の欄間に、「延命山」と金文字でかかれた偏額は楽翁と呼ばれ、奥州白河(福島県)の藩主で、後幕政老中の要職に就き、寛政の改革を行った、松平越中守定信の書と言われています。定信が老中の職に就いたのは、天明七年から寛政五年(西暦一七八七年~一七九三年)までなので、この偏額の揮毫(きごう)は老中職を辞してから以後と考えられます。おそらく島の産物の取引のあった問屋まわりの寄贈と考えられます。
 内陣正面の祭壇に祀られている仏像は、開基以来の御本尊の地蔵菩薩で、比叡山の恵心院に住居した天台宗の僧侶恵心僧都の作と伝えられています。また脇に並ぶは阿弥陀如来の像で、「十五夜婆さん」(*)の伝承にまつわるものです。
 本堂の裏手から左側一帯は、島の家々の墓地で、狭い通路を挟んで、ビッシリと墓石が並んでいます。島の人達はこの墓地に朝な夕べ四季の花を彩りよく飾り、水を替え線香を上げています。墓地で読経をしている老婆の姿は、島の人の人情の厚さを表していると思っています。
 またこのお寺の過去帳に「逃げ込み」(*)と言うものがあったとされていますが「駆け込み」とは少し違うように思えます。
 *「十五夜婆さん」の伝承
 十五夜の晩に生まれた前田市郎平の婆さんは、普段から信心深い人でした。ある晩夢の中に仏様が現れ、多幸の浜へ迎えにきてほしいと告げられました。他家に嫁いでいた妹と暗く寂しい山道を提灯で照らしながら多幸の浜へ急ぎました。夜が明けて太陽が水平線から現れると、浜の渚に三体の如来像が漂着していました。姉妹二人は如来のしずくを着物の袖で拭い、そのままお寺の和尚を訪ねて大きいのをお寺に、小さいのを姉妹で一体づつ家の本尊佛とすることにしました。十五夜婆さんは十五夜の晩亡くなったそうです。
*逃げ込みの伝承
 濤響寺の古い過去帳に次のような書き込みがあります。
 文化文政の頃、仏の心を入れて佛弟子になる者、連合いに先立たれて尼になる者が多くいましたが、その外に「逃げ込み」と言い、過失で当時の掟に触れた者、失火で山や居宅を焼いた者が、その罪の深さを懺悔して、濤響寺の住職の許へ救いを求めてきた者がありました。当然のことながら島役所の詮議は厳しいものですが、住職が被告に代わって陳謝し、将来を保証する事を誓約して、身柄を濤響寺で引き取り、犯した罪の軽重で一年とか三年の間佛弟子や尼として滅罪と懺悔のために仏に仕える日々を送らせました。その期間が終わると自宅に帰し、公的にも私的にも自由な暮らしを保証する習慣が明治の中頃まで行われていました。罪人とは言え一旦法衣を纏えば世俗の者では無く、その罪を憎んで人を憎まずの故事のように、村の人達も黙認し罪の縄を掛けない習わしがあったと記しています。この逃げ込みについては、当時犯罪者の毎日の管理、管轄する代官所との複雑で数ヶ月も掛かる往復文書のやり取り、面倒な日常のことを考えると、島役所と濤響寺との間に、ある種の黙契があったのではないかと思われます。

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