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神津島の史跡

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物忌奈命神社


物忌奈命神社は島の村落の北側の高台の台地に、小高い山を背負うように祀られています。
 表参道は島の玄関神津島港を見下ろすように六十数段の、急な配段、その下に石造りの大鳥居を、また階段の上にも鳥居を構え、裏参道も二十余段の階段の上にも鳥居を構え、樹齢数百年のタブの大木が鬱蒼と繁る広大な神域を持っています。
 この神社は、先の戦争の時、村落が戦災を受けた時、神門と薬師堂を焼き、また拝殿はシロアリの食害を受けましたがそれぞれ復旧し旧の姿を取り戻しました。拝殿の奥にある文化六年(西暦一八〇六年)建築の本殿は、平成十二年(西暦二〇〇〇年)の七月に発生した新島、神津島近海地震により本殿左側の山の斜面が崩落して大量の土砂と倒木のため崩壊してしまいました。(現在は復元している)この本殿は六坪程の御神体を納めた内宮を覆うように作られていて、覆殿とも言う人がいますが壊滅的な災害にも関わらず、御神体はご無事であったと言います。
 御祭神の物忌奈命神が歴史書に現れるのは平安初期の仁明天皇の治世を編纂した続日本後記九の九月二十三日の項で「承和七年(八四〇年)九月 伊豆国に言う、賀茂郡に造作の島あり。本の名を上津島と名づく。この島に坐はします阿波の神は三島大社の本后なり。又、物忌奈命は即ち、先の社の御子神なり。
承和五年(八三八年)七月五日夜火、上津島の左右の海中より出ず。焼炎は野火の如し。十二童子は相接して炬を取り、海に下り火をつく。諸の童子は潮を覆むこと地の如く、地に入ること水の如し。上の大石は震はし、火をもって焼きほろぼす。」と有ります。
 この承和五年の神津島・天上山の噴火は相当大規模なものだったようで、その爆発音は遠く近畿圏でも聞こえたそうです。「十二童子」とは十二の火柱が立ち上がった様子なのでしょう。当時の人々にとって、それはまさに神の怒りそのものでした。
 実はこの神津島の噴火からさかのぼること六年前。朝廷は天長九年(八三二年)に三島大明神(三島大社)とその后の伊古奈比羊(イコナヒメ)神・(伊豆白浜神社)を従五位下の位に祀っていました。神津島の噴火はその仕打ちに怒った正后・阿波命と御子神・物忌奈命による災異と畏れられたようです。追って承和七年(八四〇年)には阿波命と物忌奈命はそろって従五位下の位に祀られ、その後も常に三島大明神に次ぐ地位を保ってゆくことになります。
 また、平安中期の時代に施行された、律令延喜式の神名帳の中で由緒も正しく崇敬の顕著な神社。全国で二八五座の名神大社に母神の長浜に坐す阿波命神社と共に選ばれ、国弊社としてかって国の事変の折には伊豆の国司が国弊を捧げ国家安泰を祈られた神社で、廃藩置県後は東京府社となり、府知事が弊帛(へいはく)を捧げる神社でした。
 物忌奈命神社の例大祭は毎年七月三十一日の宵宮祭から八月一日と二日に行われ、小学校の子供神輿も繰り出し、年により神輿の渡御が行われます。この神輿の渡御については明治二十三年頃にコレラが蔓延した時、島の若者たちが御神体を納めた神輿を担ぎ、村の中を疫病退散を祈りながら駆け巡った故事が神輿渡御の始めとされ、その折の神輿は今も大切に保存されています。
 また二日に「かつお釣り神事」が若者たちにより奉納されます。三組もしくは四組の若者たちは青竹で舟様の物を作りそれに乗って、かつお漁の出漁から漁場での釣上げ、大漁旗を掲げて帰港水揚げ入札に続いてかつおの運搬までを一連の所作で表現したもので、東京都の無形文化財に指定されています。

阿波命神社


延喜五年(九〇五年)醍醐天皇の勅で六十二年の歳月を経て康保四年(九六七年)に施行された延喜式の神名帳に、物忌奈神と阿波命神は由緒も正しくかつ崇敬の篤い神社として、名神大として官社に指定され、名神祭の祈りは国司からの奉幣を受ける、全国で二八五座に連なる神社です。
 この神社の祭神名から、天太玉(アメノフトダマ)命(天岩戸の前に集まった神々の一柱、忌部氏の祖神)の孫、天富(アメトミ)命に率いられて阿波の国(徳島県阿波地方)へ都落ちした忌部の一族が東国に渡り、麻、穀を植え、また太玉神社を建てた。これが安房(南房総)神社である。神津島には安房への東上の途次、故あり逗留されたものと言われています。
 江戸後期の国学者、平田篤胤の「古史伝」の伊豆白浜に鎮座する伊古奈比羊神社の項に、「事代主神はまた三島神社に座す、此の神の后に伊古奈比羊神と申す、また本后を阿波命神と申す、また阿羽羽(アハハ)命の神と言う、また阿波神と言う、また天津羽羽(アマツハハ)神という。
 この神は天石門別神の娘で、産みし子は五柱に坐す、その一柱の名は物忌奈神と申す、この神は伊豆の国に坐す神也」とあります。
 「続日本後記」の仁明紀の巻九、承和七年(八四〇年)の九月二十三日の条で、承和五年(八三八年)七月五日の神津島の噴火の記録の条の中に、「阿波神は三島大社の本后なり、五子相い生まる」とありますが、五柱の神は何処にお祀りしているのでしょうか。
 私たちが明神様と呼ぶ物忌奈命神社の祭神と、多幸の榎木ヶ沢に祀る日向神社の祭神「たうないの王子」また祇苗島に祀る祇苗神社の祭神「ただないの王子」は物忌奈命神社明細長に、阿波神の御子神と記載されています。
 三島大社の宮司、萩原正夫著の「事代主神御事蹟考」の中に、「伊太豆別神、(御蔵島鎮座)阿豆佐別(アツサワケ)神(利島鎮座)の二柱も阿波神の王子ならん」と記しています。
 阿波の神が鎮座する長浜は、村落から北へ三キロ程離れた海岸で名前が示すように長い磯の浜で、その奥に阿波命神社の鳥居が見られます。
 この長浜は「五色浜」と呼ばれていますが、「続日本後紀」には古代の長浜が細かく描写され、海岸には青、赤、黄、黒、白の小石を敷き並べ五色の浜と記されていますが、ここを五色の浜と呼んだのはこの歴史書以来でしょうか。
 また境内は両側が切り立つ山間の沢で、その境内を横切って小川が流れ、そこに架かる橋を渡ると、古代の様式を伝える神殿で旧社殿跡が、東京都の史跡に指定されています。
 海岸の奥に立つ鳥居や神殿の前の階段に、扁平な小石に濡れた海砂を盛り供えられていますが、これは潮花と言い大漁の祈願や船出の安全を祈る時、潮花を供える慣わしがあります。
 「古代、神は海から来訪すると考えられ、海辺の砂や小石にも神が籠るとされ、それを神に捧げたもので、潮花は神を表しているもの」と言われています。
 また神殿の中に大小二個の甕(かめ)が納められていて、夜になるとこの甕は神殿を抜け、海辺から汐水を汲み上げて、阿波神の御用にすると伝えられ、甕の底に汐の香りを残し、床板は潮水で濡れていると伝えています。
 都道が長浜海岸に至る左手に、「三味線松・太鼓松」(現在は次世代の黒松が植栽されている)が並んでいます。この松は久しく訪れのなかった三島の夫神がお出になるので、阿波神はここで神楽を奏で夫神をもてなしました。その頃三味線があるはずもなく和琴(わごん)とか神楽笛でお迎えしたものでしょうが、たまの逢瀬をまちわびる女神のいじらしい心が伝わります。
 また、仁明紀に戻りますが、承和五年(八三八年)の七月神津島は大噴火を起こし、当時の住民が伊豆半島に避難したと言う伝承が南伊豆に残されています。また大和の国(奈良)ではフワフワと漂う動物の毛様の物が降り注ぎ、豊饒(ほうじょう)の兆しと祝ったと言います。これは石英砂の島の地質と考えると、噴火で噴き上げられたガラス繊維ではと思われます。
 この噴火について朝廷では卜占をたてさせますが、「これは戦火の兆しで、神津島に坐す阿波神が先年三島神の後后伊豆白浜神社に位を授けられたが、本后の私はその沙汰を受けない、そのための噴火である」と告げられたので、朝廷は承和七年十月阿波神と物忌奈神に従五位下の冠位を授けました。
 阿波神の父神は、天石門別(アメノイワトワケ)神と言い天孫降臨の際に迩迩芸命(ニニギミノコト)に従われた神で天岩戸の前で榊にとり付けた鏡を、天照大御神に差し出した天太玉命のお子神とされるので、阿波神は天太玉命の孫に、物忌奈神は曾孫にあたることになります。

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